why are you buying?/ものを買うことの意味




なぜ僕等はものを買うのだろう?

生活必需品だったら解る。

それは必要だから買うのだ。
でも生活必需品じゃないものも欲しくなるよね。
本当は必要じゃないのに欲しくなる。

けれどどうしても欲しい!!と思うこともあるよね。
よく子供が、どうしても買ってくれなくちゃやだ!!とダダをこねてることってあるでしょう。
あれって、多くの場合本当にそれが欲しくってどうしようもない、というよりも、親に自分が無条件に愛されているってことを確認するためだったりすることが多いらしい。

だから、それが欲しい=それにどうしようもなく惹かれているから手に入れたい、とは限らなくって、どうしても欲しいものの多くは置き換えが可能なもののようだ。
けれど、にも関わらず、ではなくて、それ故に僕等はどうしようもなく惹かれるものがあるみたいなのだ。

僕等にはどうしようもなく、ある種の欲望や(欲動、煩悩?)がある。
それは避けることが出来ない。
そして、それらの欲望には、生物的にとても必要であるにも関わらず、あるいはそれ故にとても危険な欲望もある。

例えば殺戮本能とか。

僕は少年時代、釣り好きだったのでよく魚を釣っていた。
釣り人なら誰でもわかるのだけれど、食べておいしいような大きな魚は滅多に釣れない。
釣れるのは大抵雑魚(小魚、フグ)等ばかりだ。
釣っては捨て、釣っては捨てということを繰り返して何百匹、何千匹を意味なく殺したのだろう。
ある時僕はそのことに気付いて、魚達に申し訳なく思った。

それにも関わらず、魚を釣ること(殺戮)は喜びである。
なぜなら我々人類は他の生物を殺して食べて、はじめて生きることが出来るからだ。
けれど現代のように、我々が自ら手を下すこと無く食物が手に入り、しかもそのことについて全く想像力が働かないような状況になると、殺戮の本能はそれ本来の意味を離れて、ただ殺戮本能としてのみ機能してしまう。
現代において無意味な殺人や殺戮が繰り返されるのも、多くの部分、このことが原因なのではないかと思う。

しかし僕等は、このような本能や欲望を置き換えることが出来る。
それは消費やスポーツや芸術によって、置き換えることが出来るのだ。

20世紀以降、ますます人間は動物本来の姿から遠ざかり、複雑で意味や本質のわかりにくいシステムを築いてきた。
それ故に人間は生活必需品以外のものやことが、より多く必要になってきたのだろう。
それらが無ければ、我々の生活は、恐らくもっとひどいことになる。
しかし、にも関わらず、我々の産み出した生活必需品以外の余計なものは、環境問題を発生させるほどの潜在的な攻撃性を持ってしまった。

ものを買うという行為は、そのものを産み出すあらゆるシステムに対する選択を意味している。
このことをきちんと把握している人は本当に数少ないと思う。
物を買うという行為は、それを作った人、流通する人、それが作られる自然環境、人工的環境、それに関わった全ての生命、ものが捨てられていった後の環境、それら全てに対する選択とリスペクト(尊敬)と責任を伴った、政治的な行為なのだ。

僕等は選択する事が出来る。
僕等は選択している。
自分達の買いたい物は本当に自分達の買いたい物なのだろうか?
そしてそれは何かを決定的に損ねてしまってはいないだろうか?
僕等は考えることが出来る。
自分達が何を選択するか、について。

NEXT LIFE

STEP BACK

LIFE CONTENTS