like a mcdonalds world/マクドナルド的なるものとは何か?


マクドナルドのようなファストフードの店では、ハンバーガーとポテトがセットになっていることがよくあるよね。
で、なんでこの2つがセットなのか疑問に思っていたのだけれど、北ヨーロッパによく行くようになって疑問が解けてきた。

日本人の感覚で言うとハンバーガーの方、つまりパンが主食でポテトが付け合わせだと思うよね、普通。
でもこれは違うらしい。


僕は基本的にビンボーなのでセルフサービスのレストランで食事することが結構あるのだけれど(もちろん特にうまい訳ではない)
そこで例えばメインにチキンを頼むとする(これが基本的に一番安い)と、必ずポテト??(あるいはそれを意味する別の言葉)と聞かれる。その時、別に食べたくないから ノーと言う、するとこの世の終わりじゃないかと思う程ビックリされることが度々あり(本当にいらないのかオマエ)不思議に思った。


あるいは、イギリスでランチにジャケットポテトのランチ(ベイクドポテト、焼いたポテトのこと)を頼んだところ、全長30センチ位の巨大なジャガイモと申し訳程度のサラダが付いてきた!!

これが食事か?

オランダでもディナーでステーキにポテトで終わりというのがよくある。
ベルギーでムール貝を頼むと一緒に出てくるポテトフライの量には誰でもオドロク。
なにしろ洗面器一杯分だ!!(ムール貝はバケツ一杯分、笑)


ここに至ってようやく解ってきたのだけれど、北ヨーロッパでいわゆる日本の主食に近いのはパンでは無く、ポテトだったのだということに気付いたのだった。
というのも北ヨーロッパでは土地がやせていて、いもぐらいしか採れないからだ。(すいません、嘘です)
だから、ハンバーガーに付いているポテトはおまけではなく、主食であって、ハンバーガーのバンズ( パン)は主食では無く、メインであるハンバーグの土台だったのである。


こうして考えると、なんでポテトをいらないといって、ギョッとされたのか良く解る。それは例えて言うなら定食屋でご飯抜きにしてください、というのに等しい行為だったのである!!

そんなこんなで、マクドナルドってなんでこんなに世界中に広まったのか、考えることとなった。


世界中どこでも均一な味とサービス。
速くて、安くて、そこそこの味。(不味い)
食べられればいいという考え方。

その食事の原型はおそらく北部ヨーロッパの食事から始まっている。


それは北ヨーロッパのあまり豊かではない(作物のとれない)地域の食事と生活、そこから生まれたプロテスタントの生き方とつながっている。

元々砂漠という生きていくのが困難な土地から生まれた宗教であるキリスト教が、豊かな土地であるイタリア・ローマを中心とした土地で栄えた為に、北ヨーロッパの考え方、暮らし方とのギャップが大きくなり、ピューリタン革命(キリスト教のある種の原点回帰)が起こったのだろう。


カトリックの栄えた地域というのは基本的に放っておいても作物が育つ豊かな土地だったので、食事をおいしく食べたり、楽しく生きるといったようなことがとても重要なことだった。だからルネッサンス(人間復興)などという運動が起こったのである。

それはある意味、厳格な規則が無くても生きていけるから可能だったのだろう。

しかし、土地のやせた北部ヨーロッパでは、そういうわけにはいかない。
その土地で生き抜く為には厳格な規則、新たな土地の開拓、質素な食事というものが必要だったのだと思う。


そして理想の世界への希求。
その土地だけでは足りなかったのだ。

そして彼らはアメリカを目指した。
自分達の理念を実現しようと新世界へ旅立ったのだ。

彼らにとっては、食事のおいしさよりも夢や希望や理念の方が大事だった。


アメリカに渡った移民の多くは職人ではない。
職人ではない素人の集団、あるいは個人が家を建て、街をつくる。その為には素人でもカンタンにつくれるような仕組みが必要だった。
そうして2x4のシステムによる建築など、誰でも出来る仕組み(システム)が出来上がった。


つまり彼らは、伝統的な生産システムである職人制度から脱皮して(それがものごとの本質を伝達するための重要なシステムであったにも関わらず),誰でも出来る、新たなシステムを確立したのだ。

だから、アメリカの郊外に行くと、基本的に同じようなつくりなのに、ジョージア風だのコロニアル風だの、表面的な様式だけ替えた家が立ち並ぶのは、このためだ。
ちゃんとはつくれないんだけど、皆が、遠く離れた故郷や、見果てぬ夢の楽園のイメージを模してつくったものだから、このようなニセモノの建物がつくられていったのだ。


食事も素人がきちんと技術を収得しないまま人づてに伝わっていった。
第二次大戦後、日本に伝わった食べ物の多くはこうして本質を失ったアメリカ経由の食べ物である。
スパゲッティナポリタン等はその典型である。
あんなケチャップまみれの気味悪い物体をナポリ人は食べない。
あれはナポリを想像してつくった別の食べ物である。

アメリカの食べ物が一般的にマズイのは、もともとあまりうまいものを目指していない、技術や本質の伝わらないシステム、そうした食べ物を食べて育つ為に舌が肥えない、という循環が出来上がってしまっているからだ。(ただし、ロスやニューヨークなどといった大都会はこの限りではない)


そうやって出来上がった誰でもつくれるシステムは産業革命と共に急速に広まっていった。


なぜならそのシステムは機械生産にうってつけだったからだ。
こうして職人的な技術や知識のない、本質を失ったものが大量にコピーされてつくられるようになった。

そしてそれは、20世紀のメディア革命と流通の拡大によって急速に広まってゆく。
同じイメージを持ったのが(持たされたものが)本質ではない、うすっぺらなコピーを大量に消費してゆく状況が、こうして産まれ、拡大されていったのである。

今、フランスでは過激な農民達によってマクドナルド排除運動が起きているらしい。
フランスにもマクドナルドは結構沢山あって、若者を中心に栄えている。
他にもクイックというヨーロッパ系のファストフードチェーンがあるのだけど、内容は大差ない。


思うのだけれど、フランス人は若者の間ではアメリカ文化がやっぱり滅茶苦茶流行っている。ハリウッド映画を見て、コーラを飲んでマクドナルド、ジーンズはリーバイスみたいな。
でも、20歳を過ぎる頃になると不思議にアメリカンな奴がいなくなる。
大人になるとアメリカ文化がイメージだけだと気付くからなのか、ただ単に現実に埋もれるからなのかは解らないけれど、とにかくそういう人が多い。


フランスやイタリアの食べ物というのは、作り方の隅から隅まで意味があって、それは例えていうなら宇宙や生命を鍋やフライパンの中に創り上げているようなものだ。
そういうものを小さい時から食べていれば、いくらイメージ的に好きであっても、化学調味料と機械に頼った食べ物がぜんぜんうまくないということ位、遅かれ早かれわかることだと思う。


日本の料理というのも本来そういった本質的に素晴らしいものだった。

でもそういう本質的な素晴らしさは消えつつある。

コンビニとスナック菓子とカップ麺とほか弁と冷凍食品と化学調味料とまずい給食とファミリーレストランを食べて育った人に、食べ物、あるいは料理の本質がどこにあるのか説明するのはとても難しい。

今の日本の野菜の味では昔のレシピで引き算の料理をするのは、ほとんど不可能だ。

それほど味が薄くなっているのだ。

調味料で味をごまかし続けた結果、勢いのない豊かでない土と野菜を育ててしまったのだ。
フランスで野菜を食べてみると解ると思う、日本がどれほど大切なものを失いつつあるのかが。(フランスでも全部がうまいわけではない、もちろん。と、いうか、最近はパンも野菜もうまくないものが増えてきた)


食べる物を選ぶという行為は、それを育てるあらゆる環境をつくりあげることだ。


それは土を育て、微生物を育て、水や森を育み、ひとを育て、生命を創り上げる組織を選ぶことだ。

フランスの過激な農民達がマクドナルドを襲ったのは、もちろん保護主義的な色彩も濃いのだけれど、本質的でない食べ物を作り出す組織に、人々に、世界に突きつけたノーの意味は果てしなく大きい。

今、世界は遺伝子組み替えやゲノムの解読といった、生命を産み出す仕組みそのものに根本的な転換が訪れようとしている。

この問題は難しすぎるほど難しいのだけれど、ものごとの本質を知ることによってしか、それを選択することは出来ないのではないか??

自分達自身の日々の買い物や生活が、それらを選択することになっている以上、僕等はこの問題を避けて通ることができない。

だからもっと知りたいと思う、ものごとの本質について...

じゃがいもについてもっと詳しく知るための1冊

THE POTATO how the humble spud rescued the western world
LARRY ZUCKERMAN 1998
じゃがいもが世界を救った (ポテトの文化史)ラリーザッカーマン 関口篤 訳 青土社2003

じゃがいもがいかにして欧米の主食になっていったのかを1冊にまとめた本。

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