衣服と彫刻についての考察あるいは環境を突破する衣服

イタリア編



数年前イタリアを旅していた時の事である。
ルネッサンスやマニエリスムの美術と共に僕を強烈に惹き付けたものがある。
それはブティックのウィンドーディスプレーだった。


ウィンドーの人体が着ていた服は、コーディネートや色や素材が素晴らしいのは、もちろんなのだが、どこかがそれまで見慣れていた服と決定的に違っていた。
それは、その衣服が構築的な事だった。
衣服を身にまとうというより、人体の上に身につけられた衣服が新たなフォルムを形づくっていたのだった。


それは彫刻を思わせた。
ミケランジェロ以外の彫刻に全く感心したことの無かった僕は、それを見て心底オドロいた。感動したと言ってもいい。
それはものすごく美しいのだが、ハンガーにかかっていたり、たたまれていたりすると、ただのシワの物体でしかない、着ないとワカラないものだった。
ハズカシながらこの時まで、衣服が立体であることを僕はキチンと理解していなかったのだと思う。
平面にたたまれたものや、ハンガーにかかった状態で素材が良いだの、色がキレイだの、カッコイイだの判断していたのだろう。


このような構築的(コンストラクティブ)な衣服を見て初めて、衣服が彫刻や建築と相似的なものであることを理解した。衣服とは着る建築でもあるのだと。
それまで、コムデギャルソンやヨウジヤマモトのアヴァンギャルドな服や、アルマーニやドルチェアンドガバーナのアンコンストラクティブな服を見慣れていた為に、コンストラクティブな服を知らなかった。
もちろん、こちらのコンストラクティブな服がイタリアの本質的なもので、これを知らなかったら、ヨウジやアルマーニの革新性がワカラないのだ。
つまり、本質が構築的なところに脱構築的なものを持ってきたから革新的だったのだ。


で、なんでそんな基本的なことを知らなかったのかと考えてみると、日本の衣服の歴史が平面を基本にしているからなのだった。
和服というのは巻くと羽織るということを基本にしていて、衣服自体を構築的につくることはしていない。そこに入ってきたのが、イギリスのテーラードの伝統だったり、アメリカのカジュアルな服だったりしたものだから、構築的な彫刻のような衣服を知らなかったのだ。


それは初めて本物のうまいパスタを食べた時の衝撃に似ていた。
それまで知っていたアメリカ経由の、喫茶店で出てくるようなケチャップまみれののびた麺が死ぬ程嫌いだった僕は、ある時、表参道にあったミラノからの直営店でイタリアの本当のパスタを食べて仰天したのだった。これが本物のパスタだったのか、なんだ滅茶苦茶うまいじゃないかと。
それから僕が本当にうまいパスタの伝道師になったことは言うまでもない。そしてその本当にうまいパスタが日本中に普及するのに、ほんの10年位しかかからなかった。
今では日本のどこに行っても、アルデンテなパスタが食べられる。


薄々感じてはいたのだけれど、我々が普段目にしたり、口にいれたりしている多くのことは、第二次大戦後アメリカから入ってきたもので、日本が戦争に負けてしまったものだからアメリカに無条件に憧れてしまっていて、それを無批判に受け入れてしまい、結果として非常に本質のない、レヴェルの低いものになっているのではないか、ということだ。そして、なぜそうなってしまうかの本質について、僕は旅を通して数多く発見してゆくのだけれど、それは又、別の話になる。


衣服の話だ。
これらコンストラクティブな服は、着ると、どこも余ったところがないにも関わらず、動きづらくなく、シルエットがものすごく美しい、それはあたかも第二のボディーのようなものだ。
衣服というものが身につけるものである以上、身体ボディーというものが衣服における最も基本的なカタチであることは絶対に避けられない。
だから、美しいシルエットつくるためには、身体のラインも美しくなければならない。が、この構築的な服はある程度までを許容してくれるのである。それ以上は救いようがないけど ...


人間の身体というものはいくつか美しい部分があるけれど、最も根本的に重要なのは背中の湾曲であると思う。
美しい イスが人を魅了するのは、この背中の湾曲と対応しているからだ。
フェラーリがあきれるほどカッコイイのも、この身体のラインの美しさと対応しているからだ。
本当に優れたデザイナー(クチュリエ)は、この背中のS字ラインと、腕を下ろしたときの自然な角度に折り曲げられた湾曲及び、二の腕から脇腹にかけての微妙なシルエットをつくるのに、あらゆる技術を投入し、全力を傾けて美しいフォルムを形作るのである。


これらの衣服のスゴイところは、そのフォルムがあまりにも美しいので、その体型を維持すべく衣服が主張するところでもある。
この服が着たかったら、ある一定以上体型を崩せないのだ。
結果として、運動や食事や生活様式といったものにまで影響が出るのである。
フランスやイタリアにカッコ良く、スタイルの美しい中年から老年の女性がかなり多く存在しているのも、こういった衣服のせいもあるのだろう。


日本の非構築的な服やアメリカのだぶついたカジュアルな服をきていると、どんどん人間が肥大化してしまうのである。余計な部分に余裕があるから...
試しに身体にぴったりの服を着てみよう、すると筋肉の緊張がみられるだろう。
この筋肉の緊張が、筋肉組織や神経組織を日々形成してゆくから、美しい身体が保たれるという部分が実はかなりある。(ただし、休む時は必ず、楽な服を着なければ身体を壊すので、念のため)
あと、別に痩せろと言ってる訳では無いので誤解のないように。
話しはズレるけれど、ダイエットという言葉は痩せるという言葉と同義ではない。
ダイエットというのは本来、どのような食生活、運動をして自己管理、自己機能を維持していくか、ということを考えた生活スタイルであって、それは、かつての農作業のように日々激しい肉体労働を繰り返していた時代の食と、現代のように運動が不足しがちの時代の食や組織維持の仕組みが、決定的に違うのは明かだ。
その違いを解った上で、適切な生活スタイルを維持しようという思想だったはずだ。
それがどうしたことか、食わずに痩せるとか無茶苦茶な誤解をうけて、社会的病理のように定着してしまったのだった。


それはさておき、優れた衣服というものは、このように実際的に身体にも影響を及ぼすし、心の作用にも影響を及ぼす。
その場に相応しい衣服は、それを着る人に自信を与えるし、人をポジティブにさせる。
そして、それらが本当に本質的にすぐれているならば、語らずしてその環境に対する説得力を持つのではないかと思う。
その自然な説得力は、人々にあらゆる境界の突破を許す。
どういうことかと言うと、それがどう見ても素晴らしく、その環境に相応しいために、それが理屈なしで受け入れられるということが起きるのではないか、ということだ。
それはあらゆる境界を突破する衣服である。


では、どのようにすれば、そのような境界を突破出来るような素晴らしい衣服がつくれるのか?
それは衣服の持つあらゆる本質を形として体現することなのではないだろうか?
それら衣服の本質については、別に議論していくけれど、衣服の美しさ、美という観点から見ると、以下のようなことが解る。


プラダやジルサンダーの服が革新的でとても美しく見えるのは、ナイロンやポリエステルのような軽い素材を使って身体的な美しさを再構築したからに他ならない。
素材というものは、その素材の持つ特性によって、そうあるべきラインの美しさは違ってくる。
だから本当に美しいフォルムというものは素材と対話し、素材のもつ特性を理解しなければ産まれてはこない。
そこには人間のエゴやデザイナー自身の表現欲求よりもはるかに強い、物理的な法則とでもいうものが感じられる。
表現者は(作り手、着る人を含めて)その物理的な法則みたいな自然の欲求を感じて、形に表すだけでいいのだと感じる。
そしてその形は、様々な外的要因、光や風や風景や生活によって、美そのものとして生きるのである。
僕のささやかな(でもないか)望みは、そのような美を日常の生活の中で、もっと多く感じることだ。
その為に、これらの本質的に優れた美しい衣服が必要なのだ。
もちろんそうした衣服を着こなす為にはある程度の努力が必要なのは言うまでもない。
しかし、日常の中にそうした美を見い出すささやかな努力をした時、日常の中の風や光や風景は、人の心の中にもっと多くの美を産み出してくれるであろう。

追記 

この記事を書いた1999年から2000年のシーズンというのが、イタリア的なコンストラクティブな服の一つの頂点のシーズンだったと思います。

これ以上美しいバランスはないというところまで行き着いてしまったが故に、その後は新たなバランスを求めて試行錯誤、解体と再生が行われました。

もはや最近のプラダの服に何の革新性も魅力も見出せないのは僕だけではないでしょう。

最近のコレクションの多くを見るにつけ、「これかよ!?」と思うコレクションが多発していると思う人もまた多いと思います。

...とはいえ、いつの時代も良いコレクションを作る才能は存在します。

名前にとらわれずに探してゆきたいものです。

06

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日常にアートや美味や哲学がある幸せ

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美しさと、繊細さと、力強さと、少しの笑い(笑)

04

LIFE

人は「パンのみで生きるにあらず」などと言う格言もあるけれど、パンも大事よ!!(笑)A