衣服とはなにか?



なぜ人が衣服を身に着けるようになったのかは定かではないけれども、最も重要な目的が温度調節にあることは、ほぼ間違いないだろう。
数千年前、は虫類と分かれた哺乳類達は自らの体温を維持する仕組みを持つことによって環境に対峙する動物のあり方を決定的に変えた。
哺乳類達は、あるものは毛皮を身にまとい、あるものはかたい皮膚を身にまとうことにより、北極から南極、砂漠から海の中まで地球上のあらゆる場所に適応をとげた。
哺乳類は、は虫類が活動することのできなかった季節や時間を手に入れることができたのだ。


そして人類は新たな飛躍をすることになる。
身体の外部装置として建築や衣服を獲得したのだ。
建築や衣服は言い換えるならば、ともに体温を維持するための第二の皮膚である。その違いは移動可能性の差であるだろう。もっとも、いわゆる建築の中にも移動可能なものは存在していて、それは遊牧民が使用するゲルやパオ、あるいはアメリカンネイティブのティピのように骨組みと布や革で構成される、衣服と建築の中間的な構造物である。
人間はこれら適応的に進化した皮膚を身に着けたり、取り外したりすることによって、場所だけではなく あらゆる季節、天候、時間に対する適応を身につけたのである。
こうして考えてみると、衣服というものが本質的に、多様な環境に適応するための装置であることがわかる。そう、われわれは衣服という装置によって新たな世界を手にいれたのだ。

そして、おそらくその次にあらわれてくる意味は、シンボル(記号)としての衣服の意味であろう。
裸で暮らしていれば、男女の区別や年齢、身体的特徴等は見ればわかるが、その人の地位や職業まではわからない。
衣服はこのシンボルとしての機能を付加したのである。
このことは、社会が分業化した時代に呼応するはずである。
分業、分権化が衣服の記号化を進めたのであり、衣服の記号化が社会の分業、分権化を進めたのである。


今でも、というか、今では特に、このシンボルとしての衣服の意味が巨大化した。
例えば、学生は学生服を着、サラリーマンはスーツを着る。
あたりまえのように皆そうしているが、なぜそうしているか?と問われて答えることのできる人はほとんどいないだろう。
それは、社会的制度として既に固定されてしまっているために、盲目的に行われているからだ。
そしてたまに、これらのことに対して、こんな意味のないことなどしていられないと異議申し立てがおこなわれたりするが、本当に意味など無いのだろうか?


例えば、警察が制服を着ていたり、消防士が消防服を着ていれば、周囲の人達は素早くその事実を認識して行動を取りやすい。(もちろん、消防士の服は機能優先だ)だから、非常時に被害を最小限にくい止める為に制服が役立っていることがわかる。
これら、衣服による社会的認知が行われるためには、社会の側に共通の認識がなければならない。
これが、警察の服だということを誰もが知っていなければ、意味など生じないのである。
ところが、このことが逆説的に、警察の服を着ていれば、警察では無いのに警察と信じ込んでしまうという危険も含んでしまう。
けれども、だれもが同じ服を着ていたら、だれが何なのか分からなくなって、相当不便であることは間違いない。
あるいは、大多数の人々が、コスプレをしだしたとしたら、楽しいかもしれないが、相当困る。
それは、社会を円滑にイージーに進めるために必要だったのだ。


このように、社会的制度としての制服の意味は大変大きいのであるが、一方でそれが、社会的制度として、習慣、慣例としてのみ意味を持ってしまい、本質的な意味を失ってしまうということが起きる。
だから、先に述べたように、意味もなくただ慣例だから、サラリーマンはスーツを着て、学生は制服を着る。という状況が生まれる。
だから、彼らに何でそれを着ているのか?と問うと、ほとんど誰も答えられないのだ。それは慣習だから。
慣習とは実にやっかいなもので、たぶんこうしなければならないのではないか?ということを皆が意味無く行うので、本当にそうなってしまう。


例えば、取引先の社長と会うのに、スーツかジーンズかと問われれば、ほとんどの人はスーツを選択するだろう。
というのも、取引先の社長に会うのにジーンズでは失礼なのではないか、関係が壊れてしまうのではないかと危惧するからである。
それは一般常識ではスーツがフォーマルと思われているからである。
でも、もしこのシチュエーションがゴルフ接待だとしたら、スーツではなくゴルフウェアの方が良いだろうし、もし、この取引先の社長がリーバイス社の社長だったら、リーバイスのヴィンテージジーンズの方が相手に受けがいいかもしれない。
このように、現実には他の選択肢が有るにも関わらず、我々は一般常識の考える無難な選択をしている。
そして、この無難な選択は相手を深く知ることがなく、物事の本質を知らずに自分の意志を慣習に預けてしまったことから生じている。


もう少しこの話をつづけよう。
例えば、夏が極端に暑いインドでは、白い半袖の開襟シャツがフォーマルである。実に理にかなった合理的な選択である。
でも、日本で同じ格好をしてフォーマルを装ってみても、ほとんど受け入れてはくれないだろう。なぜなら、それが一般常識では無いからだ。
スーツの歴史というものは、たかだか100年ちょっとの歴史しか無いと言うと、一般の人はかなりオドロクと思うが、実はそれしか歴史の無いものなのだ。
この異国でうまれた、たかだか100年の歴史しかない物体が、かくもこの世に受け入れられ、慣習化した背景には、20世紀のメディア革命=雑誌、TV、映画による共通イメージの確立があげられる。
我々がスーツに対して共通のイメージを持っているが故に、それがフォーマルとして社会的に受け入れられたのだ。
特に日本は、島国であるために、現実を目にすることが無いまま、イメージや情報だけを知って、かってに作り上げていくことが多かった。
これは20世紀日本の最大の特徴のひとつではないかと思うのだが、それは例えば、まわりにファッショナブルな人のいない田舎のオシャレな人が、雑誌から抜け出てきたかのような完璧なオシャレさんになったりするのと良く似ている。

現実とイメージというのは、あたりまえのことだが、ズレが生じる。このズレを修正していくことが我々の現実である。
イメージの無い現実は存在しないし、現実と全くズレの無いイメージも存在しない。


スーツの話だ。
例えば、夏の暑い日本で、長袖シャツにネクタイにスーツというのが、ねばならない、フォーマルな衣服のイメージと、現実の暑さには極端なズレが生じている。
このズレを一般社会では、冷房をガンガンいれるという非エコロジカルな方法で対応しているが、それがとんでもなくバカみたいな行為であることは誰でも分かる。
しかし、現実的にその状況が改善されることが無いのは、夏にスーツを着るという一般常識のイメージが、現実に打ち勝っているからだ。
このように、本質を見失った慣習というのは、慣習への圧力が強いために現実と向き合わなくなって劣悪な状況をつくりあげるのである。
それは行き過ぎると、第二次大戦で日本が戦争に突入するような状況さえ作り上げるのだ。

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