グローバルスタンダードと本当の価値ある衣服についての考察


社会的な記号性を前提としたフォーマルとは別に、アメリカから始まったカジュアル化の流れがある。
それはリーヴァイスに代表されるジーンズやヘインズによるt−シャツからはじまり、今ではGAPやユニクロに代表されるように、一般的な日常着として世界中に定着した。例えばベネトンなどは世界中のそれこそどこにでもある。
この流れも、やはりメディアによるイメージと大量生産、大量販売が価格の安さを生み、社会に定着したのである。


これらの衣服が行ったのは、社会的役割の意味の縮小、シンボルの解体である。つまりスウェットシャツにT−シャツ、ジーンズというのは社会的記号の無い無色なものだ。
これらは無色であるが故に、例えば60年代には社会的体制=制度に対するカウンターカルチャーとしての機能を持ったのだった。
カジュアルは、ジェンダー(肉体性性差sexに対する社会的性差)レス、ノンエイジ化を押し進めた。
それはどんな社会的役割を持つものであっても着ることはできるが、それによって社会的役割を提示することの無い服だ。


例えばユニクロのコンセプトは、洋服が主張するのでは無く、それを着る人間が主張すればよいというもので、これはカジュアル思想そのものを体現する言葉だ。
そしてこの思想あるいはコンセプトが行き着いた先が現代であるといえよう。
大量生産、大量販売で作られる商品は、ある程度の差こそあれ非常に似たものだ。
なぜならば、大量に生産する為には、大量の布地の安定した供給が必要不可欠だし、それには原料(例えば綿花など)の安定供給が不可欠だ。
大量のものを安定的に供給する為には、ものを生み出すシステムそのものを画一化、合理化しなければまらない。
つまり予定と違うものが売れたら困るのだ。そのために企業はイメージに訴えかけて、今年はこの服を着なければならないように仕向けるのだ。それが流行と呼ばれる。


その仕組みが最も進化したのが、おそらく日本と台湾である。
これほど毎シーズンごとに違う洋服を着ている国は他にない。
ヨーロッパなどでは、ほとんどの人が10年前と同じ様な服を着ている。
どうして日本と台湾がそうなったのかというと、人と同じでなければならないとほとんどの人が考えるからだ。
日本で一見、個性的に見える変わった服を着る人をみかけても、実はそれは、彼、彼女のグループと同一化したいだけだったりする。


企業がものを大量に生産し、販売を続けていく為には、流行のように絶えず、新しい価値を消費者に与えてゆかなければならない。
このことを続けるには、ちょっとしたコツがいる。
それは、そこそこのもの、そこそこの値段で、そこそこの品質で、そこそこのデザインのものを流行らせることである。そうすれば消費者はすぐにその製品に飽きて、次の流行がほしくなるのである。
そして現代において、似た商品の中から差別化を計るとすれば、それはイメージ戦略の中につくられるのがほとんどである。
例えばGAPの服は、宣伝はカッコイイが、実際に着てみると別段どうということのない服である。特に形がいいわけでもないし、布地がいいわけでもない、それなのに同じ程度の衣服と比べると割高なGAPの服が売れるのは、多くの人々がイメージを消費しているからである。(もちろん、良い商品もありますよ。ちなみにワタクシはギャップのストレッチTシャツを愛用しています。


今日では衣服の記号化、イメージ化は極限まで進み、人々はロゴマークを求めるようになってしまった。
ブランド産業は多くの利益を産むため、大量生産の品にロゴマークだけつけたものや、偽物が大量に出まわり、その本質でない、イメージだけの物体を人々が消費するようになったのである。
ここでもイメージと実質がかけ離れてしまったのである。


ブランドとは本来、その商品が素晴らしかったが為にブランドとして認知されるようになったものだ、言うまでもなく。
しかし、現代においては、ほとんどの人が、ライセンスものや偽物でブランドを認知するようになってしまったのである。
例えば、イヴサンローランや、トラサルディーなどは、ライセンスの商品があふれていて、しかもかなりダサイものが多いのだが、ライセンスではない、例えばパリやミラノの本店に行くと、あきれるほどカッコ良かったりする。
このように、ブランドという実態もかなりややこしくなっている。


あるいは、人々はヴィンテージのジーンズやスニーカーなどといった、手に入れにくいもの、レアもの、他とはちょっと違ったもの、が産み出すマニアックな価値観がハバをきかせるような状況がうまれている。
人々がちょっとした差を物語化することでしか価値を見いだせなくなってしまったのだろう。
どうしてこのような状況がうまれてしまったのだろうか?


それは、人々が圧倒的な価値を持つすぐれたものを知らないからなのでは無いのだろうか?
言うまでもなく、価値というものは相対的なものであって、絶対的なものではない。
ある人にとって死ぬほど価値のあるものであっても、他の人にとってはゴミでしかないという例はいくらでもある。
しかし、にも関わらず、大多数の人々にとって価値がものすごく高いという例があるように思える。


そしてそれは、ものごとの本質的な部分に訴えかけているからではないかと思うようになった。
例えば、ダンスミュージックが大勢の人の心や身体を揺さぶるのは、心臓の鼓動と関連しているからだと思う。
そして我々人類は胎児の時代に、毎日この心臓の音に包まれながら完璧に与えられた世界を泳いで暮らしていたのである。
だからおそらくビートというものは世界の人々にとって、本当に特別のものであり、共通のものであるのだろう。


同じように衣服であっても、本当にグローバルな価値を持ったもの、グローバルスタンダードになりうる衣服というのは、このような本質に訴えかけるものでなくてはならないと思う。
では、その本質となりうるものとは何だろう?
それはおそらく身体と環境にある。
衣服は身体から切り離されて存在することは出来ない。
すなわち、体型や身体の動きが衣服の形を決めるということが、衣服のデザインの本質だということがわかる。


それと先にも述べたように、衣服とは環境に適応するために作られたのだと考えれば、環境こそが衣服を決定づける最大の要因であることは間違いない。
環境とは、社会的環境と自然環境に分かれるけれど、よりグローバルな本質を持つのは、明かに自然環境の方にありそうだ。
社会的、文化的な環境は個々の価値感が違うというのはごくあたりまえであるように思える。
自然環境の方は、世界各地で環境が全く違うとはいえ、その環境に対応するやり方というのは、明かに必然性が存在する。
これらのことを考えれば、衣服の形や素材や色が、ある必然性をもってデザインされなければならない、本質が見えてくる。


このような本質を見失って、社会的、文化的な文脈でのみデザインされた衣服は、着心地の悪い、人の心や身体を本当の意味で魅了し、生活を豊かに変える衣服にはなり得ないだろう。
僕が本当に欲しいのは、日々の生活を豊かにし、あらゆる環境を突破できる衣服だ。
それを本当に価値ある衣服、圧倒的なレヴェルの衣服と呼びたい。

NEXT LIFE

BACKSTEP

LIFE CONTENTS

FASHION