rembrandt van rijn/レンブラント 夜警



レンブラントの絵は後頭部にくる。その後全身を駆けめぐる、鳥肌がたつ、感動が全身を包む。
世界3大名画のひとつ、「夜警」

 
ベラスケスは空気遠近法で奥行きのある空間を作っていた。
レンブラントのはなんだろう?さりげなく空間の奥底に引き込まれていて、肌にその空気を感じている。それは視覚的というよりもむしろ皮膚感覚に訴えるものだ。
ルーベンスは視覚的、官能的、動的で、物語に引きずり込む力があるけれども、レンブラントの場合、その力はもっと微妙なものである。
それは人間の心のなかのある種センティメンタルな部分に微妙に触れるのだ。


フランツハルスは集団肖像画を描く際に、人々を等しく描こうとして、それに成功している。
一方、レンブラントの集団は等しく描かれてはいない。にも関わらず、それは集団肖像画として機能し、なおかつ個人そのものを描くことに成功している
何かの強力な力によって僕達はその一人一人の内面にまで立ち入らない訳にはいかないようになるのだ。
いったい何がそうさせるのだろう。


レンブラントの生きた17世紀のオランダは市民が力を持っていて、レンブラントに絵を発注したのも多くは やはり市民だった。 集団肖像画や肖像画の市場があったのだ。
これらは宗教画と違って神に捧げるものではない為、発注者の気に入らなければダメだったはずだ。
肖像画は現代の写真と同じ機能、つまり被写体を忠実に写し取るという機能以外に、その発注者である人物を見た目以上に格好良く、素晴らしい人物として描けなければ商売は成り立たないのである。


これは現在と同じことだ。もちろん、あまりにも本人とかけ離れてしまっては多くの人の賛同を得ることは出来ないだろう。コツは、本人の思っているような理想的な人間に少し近づけてあげることだ。
このようなマーケティング的手法を行って商業的成功を得た代表的な人物がフランツハルスである。彼の肖像画はおおむね見てくれが良い。


そして集団肖像画の場合、誰かの姿が一人だけ目立っていたりしないように、注意深く気配りがなされている。つまり、誰かが飛び抜けてカッコ良く目立っていたり、みすぼらしかったりすれば、必ず発注者の不満をかって商業的に成り立たないからだ。
ところがレンブラントの場合は、集団の中の個人は等しく描かれてはいない、けれども彼の絵は集団肖像画として確実に成功している。それはなぜか。


彼の描いた自警団は3つのグループに分かれている。
そのグループのリーダーは、対等に目立つように描かれていて、3つのグループは、それぞれの勢いを持って画面を構成している。そしてその3つに分かれたグループの構成が、同時に画面に安定感をもたらしている。
人々の服装や持ち物は、彼らの集団の中の地位や役割をあらわしている。


これらの基本構造を守った上で、多数の人間を描いた大作である以上、遠近法をもって描かれるためには、後ろにいる人々が目立たなくなってしまう。
それを乗り越える為の工夫がこの絵の中にはある。
それが、僕等の視線を画面の奥に向かわせ、一人一人の姿にたちむかわせているのだ。


3方向に向いた人の流れ、遠近法、消失点。
画面の中央やや左におかれた光。


それと同時に大事なポイントがある。
それは、絵の中の個人と個人、あるいは個人と集団の関係性がもたらすものだ。
親しそうに話をしている人、銃を持つのが楽しくて仕方がないという感じの人、威厳を持って旗を振る人。
これら、人と人との関係性がもつダイナミックな流れが、観客を一人一人に向かわせる。そしてこれら一人一人は、その人の内面まで浮かび上がらせる程に描かれているのだ。
だから僕等はその一人一人の内面にまで立ち入らなければならないようになるし、発注者一人一人は納得するのだろう。


そしてもう一つ重要なポイントがある。
それは、対象物と空間との対比である。あるいは空間そのものである。
遠近法によって産み出された奥行きのある空間、その本来何もないはずの空間は、しかし、光と陰によって、あるいはただよう光の粒子によって、そこにある空気の質さえもが見るものにとって感じられるようになっている。
そしてその 画面の中の空気の質 は、画面の中の人々の心の中 と対応しているように思われるのだ。
不在の産み出す存在感、とでもいうのだろうか。
それだけでは無いな、その空間のなかに見る物を入り込ませてしまう、そうしてそこにある空気感を体験させてしまう、そんな力がこの空間の中に潜んでいて、画面の中の人物と同じ空気を感じることが出来るということなのかもしれない。

レンブラント 夜警/ アムステルダム国立博物館

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