p.p.rubens/ルーベンス



ピーターポール ルーベンス なんでこの人の絵を子供の頃好きだったのだろう?
ルーベンスの絵は躍動的で官能的でエロティックだ。
そんなのを子供が理解しえたのだろうか?
そんなはずはない。
きっと絵がうまくてスゴイと思ったのだろう。
ルーベンス、うっとりしちゃうよね。
1994 madrid spain

p.p.rubens 2

全くルーベンスの構図の見事さには圧倒される。
エネルギーを見事に一点に集中させることに成功している。
馬の曲がった首、引き付けられた足、梯子にかかる手、足の具合、周りの人々の叫び、動作、背景、全てが利用されている。
その力が全てキリストの心臓に集中される見事さ、常に動きがあるのだ。
最大限に引っ張られたバネ、あるいは極限まで引かれた弓のように、その力はこの絵の中に存在している。
その引き金をひくのは、もちろんこれを見ている自分達である。

アントワープ、ノートルダム大寺院、ここに世にも素晴らしい絵画物語が存在している。
p.p.rubens作、キリストの降架、間違いなく今までに見た絵画の中で最高傑作の一つと言える。
それは、ローマ、サンルイージ デイ フランチェージ教会のカラヴァッジオ、聖マタイ三部作に匹敵する名画である。

正直言って、その絵の前から動けなかった。

この絵は自分の芸術への入り口とも言える作品で、ずっと見たいと願っていたのだった。
しかし、時とともにルーベンスへの興味も薄れていった。(あまりにも大事代的だし、大げさすぎる)
だけど、やっぱりここは帰ってくるべき場所であった。

この絵は世界で最も素晴らしい文学の一つ、フランダースの犬(筆者比)で、主人公ネロ少年がどうしても見たいと願っている絵で、その物語の最後の場面、ネロとパトラッシュが息絶える寸前に窓から差し込む朝日の光で初めて見ることの出来る絵なのだが、こんな素晴らしい物語を書かせるだけの力をこの絵は内在しているし、それらは相乗効果を伴って自分に感動を与える。

この作品は本当に完璧な作品である。
欠点は何もないし、もはや宗教画という枠組みを完全に越えて、人の生というものを描き出している。
知っていると解るというのは違うと前に書いたが、キリストとマリアを今までは知識として知っていたが、この絵を見ることによって初めて、彼らの人生を想像し共振することが出来たように思う。
なにもそれは宗教的な行為ではない。
それは想像し理解するということなのだ。

この絵はマリアの受胎、キリストの誕生、キリストの死、という三部構成になっている。
又、王立美術館の磔にされたキリストとも対になっている。
あの比類なき構図でキリストの心臓めがけて放たれた力は、この絵の中のキリストの死によって新たな力に生まれ変わっている。
winter1996 antwerp belgie

p.p.rubens4 母と子

キリストの降架の左端は妊娠したマリアだ。
マリアは自分の子供のいるお腹を愛しそうに撫でている。
その顔は期待と自信に満ちている。

横にいる洗濯物を持った女中も明るく元気で、この絵に生命力を与えるのに一役かっている。
右端の絵はキリストが産まれた時の絵で、神の子が産まれたと喜ぶ司祭が高く持ち上げた息子イエスを、マリアが、あんたそんなに高く持ち上げたら危ないじゃないの、という目つきと、こわばった頬の顔つき、もし万が一司祭が子供を落としても受け止められるように差し出された手が、母親の我が子への愛情溢れる場面になっている。

そして奥にいる母マリアが、どんなもんだい、という顔をして孫キリストを覗き込んでいる表情もおもしろい。

そして中央にある死んでしまったキリスト。
その手足には、もはや力はなく重く垂れ下がったままだ。

そしてその身体を支える男達の必死の表情と筋肉。
マリアはそんな、冷たい肉の固まりになってしまった我が子イエスに、少しでも触れようと手を伸ばしている。

この絵は宗教画というよりも、平凡な親子に過ぎなかったマリアとイエスが、周りの期待と信仰と憎悪の為に翻弄され、引き裂かれてしまった過程を思い起こさせる。
彼らの人生は、本当は彼らのものだったのだ、と僕は思う。
ルーベンスも又、そう感じていたのではないだろうか??

winter1998 antwerp belgie/gento.m.a.t.

NEXT TRAVELL

TRAVELLING BACK

ART CONTENTS