caravaggio/聖マタイ三部作



ローマの中心部、ナヴォーナ広場の外れにサンルイージデイフランチェージ教会はある。
この教会を訪れるほとんどの人の目的は、この教会の中にある3枚の絵にある。

カラヴァッジオ作、聖マタイ三部作
この、世にも素晴らしい絵画は教会の暗闇の中にくっきりと浮かび上がっている。

聖と俗、光と影、靜と動、繊細な表情と大胆な筋肉表現、一瞬をとらえる力と永遠性。
対立する二つの力が均衡することによって立ち現れる緊張感、ドラマ性。
素晴らしい色使い、ディテール、構図、全てが完璧に作用して、このドラマを作り上げている。

たった一人の男の描いた、この3枚の絵画で、これ程の圧倒的な質、量のドラマが作り上げられているというのは、いったいどういう訳なのだろう??

それは全てを含んでいる、何もかも、生と死、生きるというドラマ、リアリティー、何もかもがその絵の中で生き続けている。

そして、その絵は最高の場所で見ることが出来る。

恐らくこの絵は美術館向きではない。
この教会の、石に囲まれ、歴史を背負ったこの暗闇の中でこそ、本当に光り輝くのだろう。

それにしても、これ程の素晴らしい絵画を(実際に世界で一番スゴイ絵だと僕は思っている)ローマを訪れる多くの日本人のほとんどが、この絵の存在を知る事無く立ち去ってゆくというのが、残念でたまらない。

もちろん、カラヴァッジォの絵は激しく好みの分かれる絵だと思う。あまりにもドラマティックだし、心の奥深くをえぐるからだ。
だけど、たとえ拒否するにしても、この絵を体験する意味はあるのではないかと思う。
それは、ある人にとっては、ヴァティカンの数万点に及ぶ絵画や、歴史が作り上げたこのローマの街さえも上回る感動を、この絵が与えてくれるかもしれないのだ。

カラヴァッジォは絵画を決定的に変えた。
闇の中のもの、それは見ることが出来ない。
しかし、闇の中に物体が存在しないわけではない。
闇の中に光が当たる時、物体の存在は浮かび上がる。
その浮かび上がった物体は闇を含んでいる、闇の中に含まれた存在を含んでいる。

それは闇を引き連れた光だ。
それ故に、その光は僕等に何かを与え続けるのだ。

カラヴァッジォ自身、心の闇をあまりにも多く含んだ存在だった。
彼はホモセクシャルであり、殺人まで犯した。
酔った上でのけんかだった。
彼は島流しになり、30代の若さでこの世を去った。

又、彼は聖母マリアの死を、身投げして死んだ娼婦の水死体をモデルにして描いた。
彼にとって死とは、聖母マリアだろうがキリストだろうがそういうものだったのだろう。

彼は死というものを真剣に捉えた。
だからこそ生命の力というものをあれほど見事に描くことが出来たのだろう。

残念ながら、彼の溢れる程のエネルギーと信じられないほど豊かな才能は早急にこの世を去ってしまった。
けれど、彼の残してくれたエネルギーと圧倒的な秩序やドラマは、僕等がそれを見ることが出来る限り生き続けている。

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