travelling to the art/美への旅


僕は1990年代、十数回の旅で百数十の美術館に行き、数十万点に及ぶ絵画を見た。
何でそんなことをしたのか自分にも良くわからないのだけれど、気づいたらそんなに廻っていたのだった。

ルーブルやプラドなどの大美術館があり、マウリツィハイスのような小さくても珠玉の名画を揃えた美術館があり、アントワープ現代美術館(MUHKA)のような先鋭的な展示を行う素晴らしい美術館があった。

地方の名もないようなちいさなギャラリーに行ったこともある。この先二度と見ることの無いであろう無名の画家達。

教会に行くことも多かった。
どんな説教よりもどんな立派な思想よりも、豊かに何かを伝える絵画。そんな絵画が静謐な空間にひっそりとたたずんでいた。


ここに書かれているのは、そうやって旅をしながら、心の奥底、あるいは身体の奥底から汲み上げてきた井戸水のようなものである。

そしてその汲み上げられた水は、最初はほんの少しのものだった。けれど時がたつにつれて、だんだんとそれは流れのようなものを形作っていった。
その流れはいったいどこに行き着くかは解らない。
しかし、そこに意味らしきものが現れ始めたのも事実である。


これは批評ではない。
言葉で説明できることをなぜ絵であらわす必要があるというのだろう??

絵画とは何かを伝える為の手段であるはずだ。
しかしその何かは、その絵画を見る側になければ絶対に伝わらない性質のものなのだ、ということにあるとき気づいて僕は愕然とした。
そのことは本当に本質的なことである。
コミュニケーションとは本質的にそういう性質を持つからだ。
だからここに書かれていることは客観的事実でもない。
あくまでも自分とそれら絵画、あるいは絵画を取り巻く様々な事柄が反応、感応してできた内的真実である。


でも僕等はやはり、そのような内的真実によってしか、本当にものごとをワカッタり、人に伝えたり出来ないのではないか?
芸術というものが時々ワケノワカラナイ程、感動的であったり、真実であったりするのもそういうことなのかもしれない。

ここに書かれたことは恐らく、本当にそれを見るという行為があって初めて成立するものだ。
そして、本当に見て、経験して、ワカルということは、自分の中の相似的な部分がダイレクトに反応して出来上がるものであるような気がしている。
そうやって獲得した美は日常の中に繰り返しあらわれてくる。
そんな美への旅へようこそ。

bon voyager

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