なぜオウムはサリンを撒いたのか?あるいは、2元論についての考察



ずっと考え続けてきた、なぜオウムがサリンを撒いたのか、について。
この問題は、僕等が目をそらしてはいけない仕組みがあらゆる部分に存在しているような気がするのだ。そのことを徹底的に解明したいと思った。

なぜだろう、直感的に、そうしなければならないような気がしたのだ。
それは彼らの行動があまりにも第二次世界大戦の時の日本に似ていたからかもしれない。
あるいは、それを報道するマスコミや大衆の反応がとても気になったからかもしれない。
なんだかそれは過去に起こったあらゆる惨劇のリピートを見てるみたいに思えたのだ。
それは十字軍や魔女狩りやナチスと相似形のように見えた。

ほとんどの人は、常識で考えられないような出来事が起きると、その事を異常なこととして意識的に排除しようとする。しかし、その異常なことが、人が排除しようとするが故に起きるとしたらどうだろう。
あるいは、その異常なことが必然的に起こるとしたら。
可能ならば、オウムの側にも一般市民にとっても納得のできる仕組みの解明をしてみたい。なぜそうなってしまうのかについての本質について。

なぜ宗教やイデオロギーが大量殺人に発展するのか?

宗教ってよく戦争してるよね、なんでだろう?
自分が正しいと思ってるからじゃないの、カンタンに言って。
だから他人のやってることが我慢ならないんじゃないかな?

では、なぜ彼らが大量殺人が出来るのだろう?
それは彼らに正当な理由があるからだ。(もちろん、彼らなりのということだが)
正当な理由がなければ、殺される人の人生を背負って大勢の人を殺せるわけがないのだ。
悪いことをしようとして人殺しをしても、せいぜい数十人だ。
それに対して善いことをしようとして人殺しをする場合は、下手すると数百万人になってしまう。
なぜって、それは善いことだと思ってるから、平気なわけだ。

キリスト教やイスラム教仏教などの大宗教では、その宗教がその国で多数派である為に、その宗教なりの正当な理由で殺人を犯しても、多くの場合罪にはならない。
一方、オウムのようなカルト宗教の場合は、どの国でも少数派なので、必ず罪になる。
彼らなりの正当な理由が、多数派にとっての正当な理由にあたらないからだ。

このことは、アメリカが第二次世界大戦の時に原爆を落として数十万人を殺害したのが全く罪にならず、例えばアメリカ人一人撃ち殺した日本兵が罪になるのと同じ理屈である。
このことは我々が見逃しがちな重要な事実である。

オウムみたいのは必ず罪になるから目立っているけど、同じような理屈で殺してる場合はいくらでもあるのだ。
それらは、いかにもまともそうな理屈がついてるから、ついそうなのかと思ってしまいがちだが、多くの場合、ただの人殺しである。
例をあげて見てみよう。


SHOAHという映画を見たことがあるだろうか。
これは9時間!!に及ぶユダヤ人のホロコーストについての映画なのだけど、とにかくスゴイ映画なので、全ての人に見てほしいんだけれど、それはそれとして。

この映画はユダヤ人虐殺の当事者、関係者に対するインタビューで構成されている。
虐殺を行う側だったナチス、虐殺される側だったユダヤ人ー自らの家族や仲間をガス室に送らなければならなかった、奇跡的に生き残ったユダヤ人、ユダヤ人を移送した機関車運転手、ユダヤ人ゲットーの関係者、まわりにいたポーランド人達、連合軍の人達。

この映画を見ると、どうしてユダヤ人達が殺されていったのか解るようになる。(もちろんある程度ということだが)
今まで知識として知っていたものが、想像力と感応力によって解るようになるのだ、多分。

ごくカンタンに言って、700万人ものユダヤ人達が殺されていったのは、彼ら(ナチス、ユダヤ人、ドイツ人、ポーランド人、当時の世界中の人々)が、ユダヤ人達が殺されている、あるいは殺されるという事実を想像するのを避けていたためだということがわかる。

そしてこの映画の中で、その事実を世界に知らせる為に、ドイツの街に無差別に爆弾を落として、これは全てユダヤ人の虐殺に関係して落としているのだと説明すればよいという話が出てきて、この話に自分が引きずり込まれていることに気付いてガク然とした。
なぜなら、その死に本質的に違いは無いからである。

個人の死とは、つまりその人の生活の死であり、可能性の死である。そしてその人が関わる全ての関係の死でもある。
その人の抱えている、愛しているもの、あるいはその人と関わっているもの、人にとってのあらゆる可能性はその死とともに消えて無くなってしまうのだ。

ガス室で殺されるのも、爆弾を落とされて死ぬのも、個人のレヴェルで死は平等に訪れる。
その死に大義名分など全く関係ないはずだ。
そのことが解っているなら、ドイツの街の爆弾を落とすなどという話がでてくるはずがない。
でも僕は一瞬この話に惹かれていた。
そんな風にして、みせかけの大義名分のために、人は殺されていくのだと思う。

完全さのもたらす破壊、あるいは理想、純粋のもたらす狂気

被害にあった一般の人とオウム信者の決定的な違い、それは完全さの中に入り続けようとすることにある、恐らく。
オウム信者は僕等のまわりに少なからずいそうなタイプである、というより僕自身だって少なからず似ているところはある。
それでも彼らオウムと僕が決定的に違っていると思うのは、彼らが完全さの中に入り込んで一生過ごしたいと思っているのに対し、僕は完全さに触れたいと願ってはいるけれど、その中に没入しようとは思わないことだ。
なぜなら、完全さというのは決して長くは続かないからだ。


至高体験、あるいは神秘体験、ニルヴァーナや悟りと呼ばれる体験をしたことがあるだろうか?
実を言うと僕はしたことがあるのだけれど、結構この種の体験をしたことのある人は数多いらしい。
そしてそれらの体験は世界中で共通の感覚を持っていることも知られている。
僕の場合は、そんなに激しいものではなかったけれど、それでも細胞が溶けて宇宙と一体化していくような感覚におそわれた。

そのような体験を記憶から排除することは不可能だ。
なぜならそれは圧倒的にスゴイ体験だから。
多くの人はその幻影を求めて、音楽を演ったり、ダンスをしたり、クスリを打ったり、セックスしたりしているのだろう。
しかし、オウムの人達はその体験の中に永遠に入り込もうとした。(真似してただけの人も多かったのだろうけど)

実を言うと、全ての人々はこのような完全な体験、至高体験を実際に経験しているはずなのだ、もし経験が無いという人がいるとしても、それは忘れているだけだ。

なぜなら僕達が母親の胎内にいた時、僕達は完全な世界に浮かんでいたからだ。
母親の胎内の中では、全ては与えられ、僕等は個でありながら一体だった。
完全さ、それは誰もが体験していたのだ。
だとしたら、神秘体験の質が世界中で似通っているのも当然のことだ。
僕等は完全さの記憶を含んだまま産まれてくる。


ピアジェ等の研究によれば、乳児がある一定の期間、完全さの仕組みを保ったまま暮らすことが報告されている。
別の研究では、乳児が一般の大人の皮膚呼吸や肺による呼吸の仕組みの他に、胎盤内での代謝による栄養補給の仕組みが内包されていることが報告されている。
そのために、産まれたばかりの赤ちゃんは水の中で魚のように泳げるし、あやまって水の中に落ちた子供が、通常考えられないような仕組みで蘇生したりすることがあるのは、このためだと言われている。(実は僕もすごく小さい頃、家のみずがめに落ちたことがある。もちろん死ななかった。笑)

記憶や生命のシステムというのは、完全に消えてしまうのではなく、フロッピーディスクの情報を消去する時のように、そこにつながる回路というか道が忘れられるだけらしい。
このことはきちんと確認したことではないので、何とも言えない部分があるのだけれど、突如として昔の記憶が蘇ったりするところをみると、かなり当たっていそうな話だ。
そんな訳で、僕達はなんらかの拍子で別次元のというか、過去にカクトクしていたシステムや記憶に戻ってしまうということは、ごくあたりまえにあるらしい。


ピアジェ、マスターソンの発達心理学の話に戻る。

乳児は初め、全てを完全に与えられている状況にあって、全てを完全によいものとして認識する。
ところが、世の中はもちろん完全によいものではなくて、おなかも空けば、おしめも濡れる、どこかが痛くなったりもする。
そのために、これらの感情を完全に悪いものとして認識するらしい。
世界を完全によいもの  完全に悪いもの とに分ける感情というのは、つまるところ二元論の世界で、天使か悪魔かと同じ論理ですね。

二元論やキリスト教的世界観がかくもこの世の中に溢れているのは、この発達過程と密接に関連していそうだ。

そして通常の発達をしていくと、世界や、子供にとっての世界(多くは母親、あるいは母親に相当するもの)は、完全によくも完全に悪くもなく、不完全さを含むものだということを理解し、欲求不満というものを身につけるのである。
ところが、全ての人がこのようにキチンと発達するわけではない。


まず、完全によいものの時代への固着がある場合(なんらかの理由でその時代から抜け出せない場合)は,自閉症という形で問題が表面化する場合が多い。

自閉症というのはつまり、胎内にいる時や最初期の幼児のような完全さを保つ為に、内に閉じこもることである。
完全さというのは、外部にきちんとした供給源があるような状態ならば、そのシステムを維持することが出来る。
ただの自律的な内的システムで完全さを保つことは不可能だけれど、外部にそれを保つためのシステムがあれば維持されるということだ。

この自閉の仕組みは外部システムの崩壊、つまり絶対的保護者が居なくなったり、社会に放り出されたりした時に終わる。あるいは他者と関わり合った時に劇的に変化する。
まるで沸騰した純水の中に塵が落ちた時のように。
これが自閉症の仕組みなのだけれど。

自分が完全に自閉状態にある場合には、まわりのそれを維持している環境 (保護者等)が胎盤にあたるわけだ。
しかし、自分が胎盤になって、自分の内部に内閉世界を築くことも可能だ。
それがファンタジー(幻想)の仕組みなのだろう。

つまり、外的な自分は世界と関わり合って内部への供給を維持する( 金を稼ぐ等)しつつ、それを母胎として内的な完全な世界を築くという仕組みですね。
この仕組みは割とうまくいく、実際にそのような仕組みで創作しているアーティストは数多いのではないかと思うのだが、でもやっぱり問題がないわけではない。
現代文学や映画はそのことを主題にしたものが多々あるので、読んだり見たりするとある程度わかるんじゃないだろうか。

そしてこの胎盤を自らの外に置き換えて完全さを維持しようという仕組みが宗教や会社や共同体の概念であるだろう。
キリスト教などの一神教では、仮想の胎盤である天国みたいなものをつくりあげて、そこに含まれている自分を認識することによって完全さを保とうとする。
カリスマというのは天国の人間による置き換えといえるのだろう。

次に完全によいものと完全にわるいものの併存する状態への固着がある場合を考えてみよう。
精神病理学的に見てゆくと、この状態への固着がある場合はボーダーライン(境界性人格障害)又は精神分裂病に発展する場合が多い。

ボーダーラインでは、自分の内部にあるよい感情や悪い感情が外部に投影される。
つまり、他者を完全によいものとしてとらえたり、逆に自分の完全によい感情が受け入れてもらえないと、完全に悪いものとして価値を低下させるということが起こるのである。

もちろん、他者というものは完全によいものでも完全に悪いものでもなく不完全なものである。
そうやって人間関係を壊していくところがこの症状の怖さだ。
そして、完全によいものを求める心は、例えば宗教やカリスマや夢や仕事に置き換えられたり、完全に悪い感情は自殺願望につながったり、破壊衝動につながったりする。


一方、精神分裂病の場合は完全によいと完全に悪いが内側に向かう。
そのために自分を神のように全能だと思ったり、全くの無能だと思ったりを繰り返す。
あるいは自分のしていることが完全によいことではないので、全くの無意味だと思い悩んだりして、社会関係が悪化する。

これらの二元論的な、完全によいものと完全に悪いものの対立は世界中のあらゆる場面で見ることが出来る。
米ソの冷戦などに見られるように、仮想敵をつくれば自らは正当化されるが、実際に、善と悪というものは相対的なものでしかない。
しかし、我々は完全によいものと完全に悪いものへの固着をどこか捨てきれないので、仮想敵をつくって自らを正当化するのである。

巨大な悪の前では、たとえ少しの犠牲をはらっても、その行為は善とみなされるように思われる。そのように僕達は敵をつくっては破壊してきた。

しかしその敵は本当に敵だったのだろうか?
僕達を正当化する為の、ただの理由や幻想にすぎなかったのではないのか?
僕達が他者を見る時、そこに見るのは他者そのものではない。
僕達が他者に見るのは、他者にの中に含まれている自分自身の一部であったり、他者と自分の関係がつくりだすものであったりする。

米ソの冷戦の終結後、アメリカやアメリカの軍部は自分達を正当化するために、新たなる敵や脅威を求めた。

それがイスラム原理主義勢力だった。

タリバーンやイスラム過激派もアメリカというわかりやすい敵が必要だったのだと思う。

正義の味方を演じたい人は敵が必要である。

例えばウルトラマンは悪い怪獣がいなければ、ただの異星人だ。

正義が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。むしろ逆のことの方が多い。

それでも僕等は正義というものを求めたり、目指したりしてまう。

それはきっと仕方のないことだとは思う。

けれど、ウルトラマンの闘いの下敷きになってしまった人々や、怪獣の仲間や家族を思う時、僕等は正義とは何か?を問いただす必要があると心から感じている。

IDEA