KYOTO/凄いぞ京都


三十三間堂は確かに凄かった。
観光バスで、来るわ来るわゾロゾロと、よくもまあこれ程人が来るものと関心するくらいのものだけれど、その割に観光地特有のうるさい感じがしないのは、観光客をも唖然とさせるだけのパワーを持っているということだよね。(いくら人が来ても観音様の数の方が多いからという話しもあるけど)
伏見稲荷もそうだけど、同じ物をただひたすらいっぱい並べるというのも一つの方法論ではあるのだね。
迫力が出る。これは間違い無い。

寝殿造りの時代といえば、ヨーロッパではロマネスクの時代にあたるわけだけれど、三十三間堂はロマネスクというよりバロック建築に近い巨大さを感じた。
何しろ奥行きが120メートルだ。
しかも総檜造りで、内部には金箔を施した1001体の観音像が並ぶ。
ましてや、それは一度火災で焼けて復興したというのだから、当時のこの寺の権力たるや一体どれくらいなのだろう?

でも、ローマのヴァチカンにしても、圧倒的な権力と財力によって当時の最高の技術と人によって作られたものってやっぱり圧倒的にスゴイのも確かだ。

薄々感じてはいたのだけれど、彫像って東洋ものの方がスゴイのでは?という疑念は確信に変わった。
例えば、ルーブルと京都国立博物館を比べると、彫像の質からいくと圧倒的に京都の方が高く感じる(絵画のレヴェルは比べ物にならない位ルーブルの方が上と思うけど)
そのレヴェルの違いはおそらく材質の違いから来ているような気がする。
つまり、材料の木自体がスゴイのだ。
一方、石膏というのはやはり彫刻の材料としてはインパクトが弱いのではなかろうか?と思うのだ(その証拠にロダンのブロンズ像は凄いパワーだ)

日本画というものが遠近法を獲得せず、それ故にルネッサンス以降の絵画が持つような空間性を獲得出来なかったから、絵画というものの方法論が実に長い間あまり進歩が無かったことについて長らく疑問を持っていたのだけれど、今回の旅でその秘密が解ったような気がした。(西洋絵画では遠近法の前後で絵画の表現できる範囲がとてつもなく変わっている)

つまり、日本画というものは、ふすま絵であれ屏風画であれ、その絵が飾られた部屋や、それと連なった庭の存在を前提としてデザインされていることに気付いたからで、遠近法以降の西洋画が持つ、空間の奥行き表現によって産まれた空気感、存在感は、日本画においては庭から連なる光や風の動きといった現実の空気や存在が肩代わりしているのだった。
だから、むしろ日本画は、それらの空間表現を呼び起こす装置として機能していると言うべきなのだろう。
と、いうことはやはり、日本画を(明治、大正以降の日本画を別にして)美術館で見てもちょっと違うということになるのだと思う。

その点において高桐院(大徳寺)の庭と縁側と座敷を結ぶ空間の構成は、たとえようもなく素晴らしかった。

庭の奥にある竹林を借景として比較的高い木が並び、それらの木が陽の光を遮って庭の手前の空間には一面の苔が生えた緑の絨毯が拡がる。
しかし、微妙に切りそろえられた木の高さと庇の長さによって縁側の部分にのみ陽の光を照らしている。
縁側では暖かい陽の光に包まれながら庭を眺めることが出来る。

さらに座敷の奥に入って表を眺めると、この空間が驚くべき構造になっていることを実感出来るだろう。
どういうわけだか縁側にいる時よりも、さらには庭に出ている時さえ上回る程に座敷の奥にいる時に庭の空気や光や自然の存在を身近に感じることが出来るのである。

良く見ると縁側に当たった光は反射して座敷の天井を赤く照らしている。
このことによって部屋の中に居ながらにして光の移り変わりを楽しむことが出来るのである。と。同時に暗闇から切り取られた光の空間が丁度映画のスクリーンのように物事を対照化して映し出すのだ。
それは実在であって実在ではないような奇妙な視覚的現実を創り出す。

そして、建物は座敷を風の通り道になるように注意深く設計されている。
座敷にいるものは、通り抜ける風を肌に感じながら木々のこすれあう音を聞きながら、このあまりに美しい光と色のショーを楽しむことが出来るのである。
これは文句無く世界で最高峰の空間芸術であると言える。
この寺が世界遺産に登録されなかったのは全くの幸いだったといえるだろう。
なぜなら、そうなったら竜安寺のように観光名所になって人々が大勢押し寄せ、座敷に上がって庭を楽しむことなど出来なくなってしまうだろうから。

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