EXHIBITION 02 "PHOTO-WHAT IS PHOTO? AND THINKING FOR INTERESTING PHOTO AND PROGRESS OF VIEWING"
写真とは何か?あるいは魅力的な写真と視覚の進化についての考察


どうせ写真展をやるのなら、写真って何だ?魅力的な写真って何だ?等 写真そのもの、あるいは一人の人間の視覚が成長していく過程というのを見てみたら、一般的な「写真展」よりも、もっとおもしろいことが出来るのでは??というのが、今回の企画です。
僕の写真が魅力的じゃ無かったらごめんなさい(笑)
何事も好みというものがありますので...

で、この章では、主に個人的な視覚の変化(進化)について書いていきます。


子供の頃、美術の時間で写生をする時にどんな絵を描いていただろうか?
僕の場合、階段に這いつくばって上を眺めて書くなど、どんどん構図がマニアックになっていった記憶がある。(笑)
今でも写真を撮ると、下から上を見上げたり、上から下を見下げたり...
つい色々してしまっている。(笑)

海に釣りに行って、魚が釣れなくて退屈になると、いつも目を細めて光りと波が一緒になるような映像を楽しんだ記憶がある。(かなりドラッグな映像になります!!是非お試しください。)
自分の撮った写真を見ると、その記憶を再現しようとしているのが解る。


そういうことを他の人はしているのだろうか??
判らない。
だから、当展覧会には、視覚についてのアンケートがあります!!後でじっくりとご記入下さい。(興味津々!!)

世の中にはマンホールの蓋の写真だけを撮るなど、マニアックな人がいるものだ。
僕は、他人の視覚が本当はどう見えているのか?ということが実は全く解らない。
ほんとに、みんな、どんな映像を見ているのだろう??謎だ。
正直、自分の見ている映像はどこか他の人と違ってるんじゃないか?という疑念は消えない。

視覚というのは、自分が興味を持った対象や、生存にとって重要な情報を優先的に選んでいくらしい。

人間の視覚が小さくて早く動くものには特に敏感に反応してしまうことはよく知られている。(だから多くの人間は、ごきぶりが怖いのだ!!)

一番敏感に反応してしまうのは、点滅したり急に動いたりする光で、こういう生理化学的作用を利用して、看板屋などが、光が点滅したり動いたりするサインの営業に来たりするけれど、どこもかしこも、そういった人目をひくものを導入して、本当に必要のない情報に注意が行ってしまうのは、まことに困ったことだと思う。
あれは、生きていく上で害悪だから即刻規制してほしい。
(インターネットのバナー広告も うざったいですね!!)
みんな、センスで勝負してほしい、センスで!!(熱くなってしまった 笑)


...で、何だっけ??
視覚の話しだった。

生存に不可欠な情報に反応する一方で、人間の視覚は興味のある対象に注意を注ぐ傾向をだんだんと強めていくらしい。

おたくと呼ばれる人達が、自分の興味以外の対象に全く注意がいかなくなるのはこの為だ。

難しく言うと、これはゲシュタルトの強化と言われている現象で、見ることと脳は相互に深く関わっているのだった。
説明すると、話しが長くなるので...詳しくは説明しないけれど、ゲシュタルト心理学や認知科学はこのゲシュタルト(まとまりを持った構造)によって、いかに人間が任意に情報を選択していくか?について研究しているので興味のある人は勉強してみて下さい。


それで、僕の場合は、その興味のある視覚というのが、美しいものやカッコイイもの等々だった。
だから、僕の視覚はおどろくべきことに、どんどん美しく格好良く進化していったのだった。(それを美しく見る為にピントやその他視覚的処理を無意識的に調節するよう、より能動的に進化していったのだった!!信じてもらえないかなー??)
自分の視覚があきらかに変わったなと感じたのは22歳から23歳くらいの時だったと記憶しております。(あー、今までと違う。)


上手くは説明出来ないのだけれど、映画とかルーブルで見た絵画とか、大自然とか街中で体験したとても美しいものとか... そんな様々なものが無意識的に折り重なって、自分の「新しい視覚」を自分自身の変化を通じて産み出していったのだと思う。

だから僕にとって写真は、そういう自分の視覚が変化していった過程を伝える記録であると同時に、そんな「視覚変容」をしていく「きっかけ」を作ったものだ。


それは、ある時は、南イタリアの街がもたらす光と影の世界とレンブラントやカラヴァッジオの絵画手法を結びつけて写真の中に刻印しているのを発見したり、ある時はフェルメールのブルーや光の粒やソフトフォーカスを見つけ出したり、シャッターを開いている時間が刻みつける「自分の視覚とは違う世界があること」を体験したり、光が拡散したり、スピード感を感じる視覚や意識をぶっ飛ばすような映像だったり様々だった。

僕がカメラを真剣に構えている時は、意識ではとても把握しきれない自分と環境が織りなすもっと大きな状況の中にいるような気がする。

自己よりも、もっと偉大なものを発見できるから、芸術は芸術と呼ばれるのではないだろうか?
自己よりももっと偉大なものを発見できるから、自分の写真を見るのは楽しいし、とても役に立つのです。(場合によっては辛いこともあります)
なぜならそこには「普段の自分」にはとうてい知ることのない(1000万ビットの)世界が拡がっているからなのです。(自分が見ている視覚のうち意識に登る情報は40ビット以下と言われています)

そして、そんな風に「自分の見ている世界が美しくなってくる」と、それを誰かに伝えたくってしょうがなくなってくるのは仕方がないことです。
下手すると、あなたの隣で美しい視覚を体験して恍惚となっている自分がいるかもしれないのですから!!笑(他人から見るとかなり馬鹿みたいだとは思うけど)

そんなわけで、この美しいヴィジュアルを何らかのカタチで他人に伝える必要が出てきた。

これは、カンタンにいく場合もあるけど、全然上手くいかない場合もまた多い。


例えば、僕はアイルランド北西部の荒涼とした地の果てのような大地「コネマラ」で、本当に言葉で伝えるのが困難なような芸術的な体験をしたけれど、それを写し取ろうとした写真には、ほぼ全く何も写ってはいなかった。
その「芸術的体験」を他人に伝えるためには、そこにあった現実の風景としての写真よりも、たぶんもっと他の何かが必要なのだと思う。

真に感動的な芸術的体験は、「ただ見ただけ」では無く、もっと無意識の中に持っている奥深い体験と共鳴して産み出されるのだと思う。
それ故に、それを他人に伝えることは「とても困難なこと」なのだ。


そうかと思えば、なんとなく撮した写真が後になって心を打つこともある。
ある時期、人生というか(人生ですねやっぱり)に煮詰まっていた僕は、なんとなく昔旅に出た時の写真を見かえしていて感動した。
それはオランダの国立公園の中で道に迷って誰にも逢わないまま何時間も過ぎた時に撮った「ただの雑木林の写真」なのだけれど、そこには、少なくても僕にとって「ただの写真ではない何か」が写っていた。
そして、その写真の中でたぶん一番大切なことは、その状況の中から生きて無事帰ってきたことである。


「絵画や写真とは何かを伝える為の手段であるはずだ。
しかしその何かは、その絵画(写真)を見る側になければ絶対に伝わらない性質のものなのだ、ということにあるとき気づいて僕は愕然とした。
そのことは本当に本質的なことである。
コミュニケーションとは本質的にそういう性質を持つからだ。

芸術的な感動というのは、あくまでも自分とそれら絵画(写真)、あるいは絵画(写真)を取り巻く様々な事柄が反応、感応してできた内的真実である。
でも僕等はやはり、そのような内的真実によってしか、本当にものごとをワカッタり、人に伝えたり出来ないのではないか?
芸術というものが時々ワケノワカラナイ程、感動的であったり、真実であったりするのもそういうことなのかもしれない。(INTERACTIVE WALLPAPERより抜粋)

...と、いうわけで、少しは自分が何を言いたいのか伝わったでしょうか?

写真とは、自分を成長させるきっかけになったり、伝えたいための手段であったり、客観的な記録だったり、時には自分の中の宇宙ともいうべきものをカタチに表すためあるいは知るための道具になったり様々です。

多分、技術というものは後から必要になってくるものだと思うのです。
何かを表したいために、それだけでは足りないから技術というものが必要になってくるのではないでしょうか?
そういった表現の必要性と技術の獲得の相互作用が、優れたものを産み出していくのだと思います。


だから、技術的にいくら優れた写真であっても、それが魅力的だと思えないものが多いのは、その写真に「そもそも伝えたいようなものが無い」のか、「伝えたいものが魅力的でない」のか、あるいは、「伝える側と伝えられる側のどちらかの側に、あるいは両方にその伝えるべきものが足りない」のではないでしょうか?

そして、もしも、あなたが僕の撮った写真が、何かわからないけど魅力的だと感じたならば、それは、あなたの中の何か良い部分がこの写真の中に含まれているということだと思うのです。

そういったコミュニケーションが存在するから、芸術というものはとても魅力的なものなのではないかと思います。


そんなわけで、記念写真じゃない、自分の記憶に残る、そしてだれかの記憶に残る写真撮ってみませんか??


... と、いうわけで、いかがでしたか?写真の考察は??
ちなみに、僕は写真のプロではありませんが、今は主にファッションのバイイングやスタイリングで、そういうプロとしての視覚行為を行っております。興味のある方はショップを覗いてみて下さい。洋服の中に何らかの視覚的な凄さ(おもしろさ)を発見できるかもしれません。


おまけ

写真の進化を本質的に体現する2人の画家、フェルメールとリヒター

歴史的に言うと、カメラオブスキューラというレンズの仕組みが開発された17世紀から、カメラによる視覚の変容の歴史は始まっているらしい。

フェルメールがカメラオブスキューラの手法に影響されて絵画を制作したのはよく知られたことだ。
フェルメールの絵が現代人の目に、とても素晴らしく特別な絵として映るのは、このカメラオブスキューラの手法が現代人の視覚に馴染むからということもあるのだと思う。
それは、ピントのぼけた部分とはっきりした部分の対比や、光のあたり具合による輝き方など様々だ。

90年代以降の若手の写真家が行った最大の功績の一つは「ぴんぼけを良し」としたことにあると思うのだが、いかがだろうか?

フェルメールの絵のような「特別に美しい光を持った目に嬉しい絵」というのは、実は「ぴんぼけ」が不可欠なのだ。


恐らく僕等のような素人(風)の写真が、一般の人に受ける最大の理由は、良い写真の決まり切った規範を全然知らず、ただ目の欲望のおもむくままに撮ったことにある。

だから、多くの若手写真家が、技術が多少上手くなっても、前より良くなったとは限らないのではないか?と思う。
(もちろん、プロとして仕事をしていくには技術が不可欠なのだ。なぜならプロはクライアントの要望に応えなければ生きていけないからだ。)


絵画がカメラの登場で「現実をありのままに写し取る」という役割を、より手軽なカメラに譲ってしまったから、絵画における印象派や抽象画は産まれた。

そして写真は、ヴィデオカメラの登場で、「現実をありのままに写し取る」という主役の座をヴィデオカメラに譲ってしまった。

それでは写真というものはその後はどのように展開進化していけば良いのか?という問いは、多くの写真家によって未だに示されていないような気がする。

そんな中で僕が最も気になる活動を続けてきたのが旧東ドイツ出身の画家ゲルハルトリヒターだ。
彼は、写真をもとに油絵で忠実に絵を描き、それをぼかしたり、ぶらしたり、消し去ることによって新たな芸術表現を獲得しようとした。

それは、写真が現実を映す鏡では無くて、そのものが自分にもたらす行為や、置かれた文脈によって変容することを示唆していると同時に、ヴィデオカメラがもたらしたスピード感やドラッグ感覚の気持ち良さや悪さみたいな領域に踏み込んでいると思う。

映画やヴィデオ以降の写真表現として(実際には彼の作品のほとんどは油彩画なのだが)彼がもたらしたものはとても大きいと思う。

それは、今僕等がコンピューターのレタッチソフト(PHOTOSHOP等)で簡単に出来る、ガウス何%とか、そういうぼかしたりぶらしたりすることで、再現することが出来るけれど、そんなものが何もない1960年代に彼が創り上げた功績はオドロキに値するだろう。

これから写真はどのように進化を遂げるのだろうか?
それは解らないですけど、誰もがアッと驚くような写真の進化を見てみたいですね。

TEXT AND PHOTO by gento.m.a.t / INTERACTIVE WALLPAPER PROJECT www.int-wp.net



EXHIBITION 02 "PHOTO"
2003.09.18THU-2003.10.14TUE

PLACE
AK labo 2F AK labo CAFE 
4-25-9 KICHIJYOJI HONCHYO MUSASHINO CITY TOKYO JAPAN
TEL/FAX/04 22 20 61 17 www.aklabo.com
OPEN THU-TUE 11:00-19:00  CLOSE WEDNESDAY
         +
INTERACTIVE CLOTHING
1F 4-25-8 KICHIJYOJI HONCHYO MUSASHINO CITY TOKYO JAPAN
TEL/FAX/0422-20-8101  www.int-wp.net
OPEN 11:30-13:30,14:30-20:00 FRIDAY 17:00-22:00 CLOSE WEDNESDAY

GALLERY + EXHIBITION