お洒落は一日にして成らず!!


ここ十数年の間に日本人は随分見た目にお洒落になったと思う。
毎年の最新流行のファッションに身を包む人、シャネルだのグッチだのを買う人。
こんなにファッショナブルな国って日本の他には無いと思う。
ヨーロッパから帰ってくるといつもそう思う。

だがしかし、お洒落は一日にしてならないものなのだということを、本当にお洒落な人を見ると思う。

お洒落だと思った人その1

京都の市内に入ると、なんとなくそれまでの周りの空気とは違う感じを受けるのは僕だけだろうか?
人々の印象も、さりげなく上品で洗練されているように思える。
そんな中でも別格に美しい人が市内の北部、大徳寺に居た。

茶道の王道、裏千家の中核となっているこの大徳寺。中でも高桐院は京都の寺社仏閣の中で最も美しい寺のひとつです。
ジェームズタレルかマークロスコか?というほど美しい光に満ちた大徳寺の縁側に座って恍惚とした時間を過ごした後に寺を出た階段のところで出会ったその老婦人。

年の頃は70代後半というところですかねー?
ワタクシ惚れましたね!この人ならデートしてもいいとさえ思いました!!
それ程美しかった。

和服に疎いものですからそれがどのような服なのか定かではないんですけど、柄はなくシンプルなけれどもシルクの美しくも上品な全く嫌味のない和服を重ね着していて、その色は表現のしようのない美しい色(自分のボキャブラリーには無い山吹色から萌葱色にかけての美しい色)のグラデーションになっており、髪の色は銀色と呼ぶに相応しい白髪でした。

おまけに階段を登る仕草の洗練されていること!!
彼女のいる風景がまるで映画のワンシーンを見ているがごとくスローモーションに見えました。周りを優しく包むオーラ。
周りの風景が彼女を引き立たせ、その上で彼女の存在がその場に豊かな優しさと美を与えているのです。
素晴らしい!!

恐らく場所的に茶道のスゴイお方に違いないと思うのですが、茶の湯とは、文化とは、お洒落とはなんぞや?ということを全身で表現しているのでした。

時は3月初旬、沈丁花の香りたつ頃でしたので、柔らかな初春の陽差しにその色彩感覚というか光に対する服の輝き具合が絶妙でしたね。これはもう生きる芸術です。
恐れいりました。ワタクシも精進いたす所存でございます。


ヨーロッパの美術館に行くと、もうわけも解らないほど素敵な、あるいはカッコイイ人に出会うことが度々あります。
絵画を見ることは人生の喜びの重要な一つですが、こういうカッコイイ人を眺めるのも又かなりの喜びです。

美術館のカッコイイ人は主に2通りあると思います。

一つはめちゃめちゃ上品で静かなオーラが出ていながら、その場所を決定的に洗練させるタイプ。
繊細な生け花のような凛とした美しさ。
ジルサンダー時代のジルサンダーの服を想像していただくとわかりやすいと思います。
やっぱり茶道と通じるものがあるような気がします。

もうひとつは、もっとアーティスティックで深みのある味わい深い、ちょっとワイルドな感じの人です。
マルジェラやポールハーンデンの世界に近いですね。

どちらのタイプにも共通しているのは、深い芸術や文化それに哲学といったものに対する造詣です。

物腰や態度、視線のおきかた、歩き方、着こなし等がそういった深い文化の背景から滲み出ているのです。

着ている服が良いからその人が美しくみえるというのはもちろんありますけど、それ以上に、その服とその人自身の考え方や感性がその空間に対して作用しているかのようです。

こういう人が身に付けているものは、最新のデザイナーブランドだろうが、その辺の蚤の市で買ったものであろうが、なんだかやけに魅力的に見えるものです。

私事で恐縮ですが、自分も美術館に行く時の格好は気を使いますね。
この空間を俺が変えてやる、あるいは自分自身が一つの作品でもあるということを認識しています。
たまに踊ってみたりもします。
そうやって動的な視線を変えながら美的な神経をより研ぎ澄ませていきます。
時々そういうことをしないと、やっぱり良いスタイリングは出来ないのです。

空間と関係のないお洒落は存在しません。
ある意味、空間が衣服を規定するのです。

イタリア人が好んでエレガントなジャケットやコートを着るのは、あらかじめエレガントでシックな美しい街が存在しているからです。
ただし、それは美しい衣服を産み出す一方、革新的なものを拒んでいるといえます。

日本やベルギーのデザイナーが革新的なデザインを成し得たのは、ある意味街が大して美しくなかったからなのだろうと思います。
街を変える程のインパクトのあるデザインが必要であったのだろうと思うのです。

そしてもう一方で、その人自身のあらかじめ持っている背景が無ければお洒落は存在しません。
そういったもの無しで存在しているものは、ただの薄っぺらな流行やコピーです。

だから、僕等がデザインを考える時に日本の文化や芸術を吸収していく必要があることは言うまでもありません。

ただ、自分自身のルーツに例えば大島つむぎがあるか?と問われれば、ほとんど無いと答えざるを得ません。
それよりもグローバル化の進んだ現代において自分自身のルーツになっているのはスコットランド産のニットの方がたぶん圧倒的に大きいわけです。

自分自身の文化的なルーツというのは、とても難しい問題です。

日本の衣服が平面を基本にしたものだからといって、それだけを見ていたのでは進歩は産まれません。
僕なんかも、イタリアなんかの構築的な衣服を知って初めて彫刻や建築につながる立体を理解したわけなので、それは絵画と彫刻くらいに決定的に大きな差が存在しているわけです。
そういった優れたものを学び取っていかなければ、絶対に優れたものは産み出せません。

恐らく日本のデザインの一番優れた部分はテクスチャー(素材)にあると思うのですが、いかがでしょうか?

古来から日本の特徴は万物に神を見出すというアニミズムに近い信仰が基本にあったのだと思います。
ものというものがつまり神に捧げる、あるいは神そのものである、自然のシステムと一体化したものであるという認識です。

我々がこれからものをクリエイトしていくのに、最もベースになるのはそのあたりにあるのではないかと今考えています。

2流の人は1流の人に学ぶ。
1流の人は自然から学ぶ。
誰の言葉かわかりませんけど、それはやはり真実だと思います。

あらかじめそこにあるもの。その中にいかに意味や美や真実を読みとるか??
そうして引き出したものを、どのようにして組み立てていくか??
それこそがお洒落の本質なのだと思います。


デザインの核心とは、その素材やカタチが我々自身や環境にもたらす意味だと思います。

あの老婦人がおどろくべきまでに美しかったのは、神=宇宙がそのその中に宿っていたからなのではないでしょうか?

お洒落は1日してならず!!

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