70%あるいは学級崩壊の問題。



なんで学級崩壊が起きるのか不思議に思う方は多いのではないだろうか?
あるアンケートによると学級崩壊のおきたクラスで、勉強についていけなくて授業がつまらない子供が約35%、勉強がカンタンすぎて授業がつまらない子供が約35%
ということは、授業を受けたくない子供が約70%もいて、安定多数を形成している。
これでは授業が成立しないのは当然のことだ。
だから学級崩壊が起きるのは割合の問題であって、先生が悪いわけでは全然ない。

なんでこのような学力の差がついたのかは、幼児教育、早期教育をする人がものすごく増えたからである。
神経系や脳、身体の組織が飛躍的に形づくられる0−3歳までの間に、どんな種類のものであれ教育を施すと、その受けた刺激を前提に各組織が形成されていくため、その方面の基礎能力が飛躍的に向上する。
これは例えば、養分をおもいきり与えられたトマトがものすごく巨大になり、1万個もの実をつける(地球交響曲第一番)のと同じ理屈である。

しかし、だからといって教育を受けた子供が全てこのように発達するわけではない。
人間の個体差がある種の物事を受け付けたり、受け付けなかったりするからである。
このようにして、ある方面の才能のある子供は飛躍的にその方面の能力が発達し、ある方面の才能が無いにも関わらず、その方面の教育を施された子供が、人生のごく早い段階で挫折し、やる気をなくしてしまうということが起きる。
日本では、ほんの10年前まではこのような早期学習は、ごくわずかしか行われていなかったから、特殊なことで済んでいたのだ。

例えば、イチローやタイガーウッズ、武豊のような明らかに突出した才能は、その才能を産み出すための特殊な環境が、その分野においてまだシステムとして確立されてない時期に起きるパイオニア的なケースなのだ。(他の誰もそのようなことをやっていないから突出して見える。)
クラッシックミュージックのように、そのような音楽的才能をのばすシステムが確立されている場合は、一人だけ圧倒的に突出するという状況が産まれにくい。(それでも圧倒的な才能はどこかから突然やってくる。以前とは違った形で)


学級崩壊の話だった。
今では学習の為の早期プログラムはごくあたりまえのものとなっている。
だから小学校に入った時点で子供達の知識レヴェルには大きな差がついている。
はるかに高度な学習をすでにしている子供達にとって、普通の小学校低学年の授業は、はっきりと退屈であるか、あるいはすぐに終わってしまうものだ。

実は僕も幼児期にかなり勉強していたらしい(もちろん遊びとして、ただし幼稚園に入る年齢ではすでに小学校低学年の学習レヴェルに達していた。)ので、このことはあまり人ごとでは無い感じがする。
自分の経験では、小学校低学年の授業は、例えば45分の授業だとすると、最初の10分か15分で全部やることを終えてしまっている。
だから後の時間は暇だ。

でも当時は純粋だったのでサボることは思いつかず、教科書を片っ端から読んでいくのである。
すると、1学期が終わる頃には既に、1年分のカリキュラムを終えているのである。
で、後の2学期は何をするのかというと、資料集とか地図帳をずーっと眺めていることになる。
だから僕は今でも地図好きだし、地名や人口やそういうのにやけに詳しいし、おまけに旅人だ。笑

それはともかくとして、このように、早期学習をしていた子供はまともに授業を受けないのである。
僕は今までこの先生はすごかったという恩師みたいのに出会ったことがないのだけれど、考えてみれば、ろくに授業を受けずに勝手に勉強していたのだから当然だ。先生のすごさなど解らなかったのである。
でもこのように勝手に勉強していても、人のものを教わるのが苦手になるくらいで、特に問題は生じないのだけれど、このような人が大勢出てくると、いささか困ったことになってくる。

僕等の時代では、このように勝手に先にいって、ろくに授業を受けていない子供は、クラスに2,3人しかいなかったし、勉強についてこれないような子供もやっぱり2,3人だった。
だからこれらの子供達が何をやっていても特に問題にならずに、それは例外として授業がすすめられたのである。
しかし現在では、先に述べたように、進んじゃってる子供とコンプレックスを抱えて遅れちゃった子供を合わせると、安定多数になってしまったのである。
これでは、ごく普通の学習スピードの子供を対象に授業を行っても、授業が成立するはずがない。


授業を成立させる為には、能力編成の授業プログラムを作るしか方法はないだろう。
アメリカでは既にこのような能力編成のプログラムがあって、例えば飛び級とか、12歳で大学に入れるとか、しかし、そこに問題がない訳ではないよね。

一番怖いのは、その能力編成によって、優越感や劣等感が生じ、子供達の能力をスポイルしてしまうことだ。
能力編成はあくまでも子供達の能力を、先に進んでいる子供も、遅れている子供も、それ以上に伸ばすために行われなければならない。
そうするためには、学力、特に学校の授業の評価というものが、あくまでも数ある価値の中のほんの一部分にすぎないことを我々全員が本当に理解していなくてはならない。


人間の価値基準というのは本当に偏屈で主観的なものだ。
特に日本のような島国、巨大な村社会にいると、きわめて一元的な価値観に縛られる傾向が強い。
ムズカシイよね、この国に多様な価値観を身に付かせるには。
アインシュタインが相対性理論を打ち立てたように、Rベネディクトが文化相対主義を打ち立てたように、20世紀の世界がカクトクした最大の知の一つは、世界は相対的であるということだ。

でも共同体から出たことのない人には、価値や正義や思想が相対的だということはワカルはずもない。あ、又批判ばっか言ってる。
ここでフォローをいれとくと、村社会が完全に悪いわけではない。
それにはいい部分も沢山ある。

第一に、安全に暮らせるし、過当競争に身をさらす必要もないし、身分や地位もある程度保証されている。
問題は、自由競争というのは、村社会の概念、価値観とは相容れないもので、一つの価値観しか認められないような状況で自由競争が行われると、最悪の結果を招くということだ。

このような才能をのばすための特殊プログラムが日常的に行われるようになると、競争圧力のために、才能を持った人達は、それ以上の才能を身につけるために、他のものごとを捨てて才能を伸ばさざるを得なくなってくる。
専門化がおこってくるのだ。

その競争で敗れた人達は、そこで身につけた才能を活かすための別の方法を見つけない限り、敗北感から抜けられない。
もし専門化が進んでいなくて、総合的なスキルを身につけているなら、どのような状況にも対処できるのだけれど、専門化が進んでしまっている場合は、その才能と相似的なものが無い限り、その才能はだめになってしまう。

この時点で、その才能を活かすための相似的なものごとへの置き換え、つまり野球選手のプロゴルファーへの転向などが行われるのであるが、ここでの相似的なものごとへの置き換えは思いも寄らない形で現れることもある。

例えば、暴力を常にふるわれる状況に身をおいていた子供が、暴力を振るわれることを前提とした仕組みに神経系や脳、身体組織、行動原理を身につけてしまった為に、大人になってから自然と暴力に近づいていってしまう、犯罪者やテロリストになったり、逆に想像(ファンタジー)の世界へ入り込んでしまうといったことも起こる。
こうした行動は、ほとんど既に刷り込まれている、システムとして組上がってしまった構造なので、それ自体を変えるということは実はとても困難である。


戦争や暴力や犯罪やアルコール中毒などの問題を考えるとき、その出来上がった構造を解き明かしたり、構造そのものを変えようという努力そのものも、もちろん大事だが、恐らく、それよりももっと効果的なのは、その出来上がっているシステムの置き換えにあるのではないか?

つまり、限定された中で暴力の置き換えを行うのだ、例えば格闘技とか、そうした置き換え(身に付けてしまったシステムをポジティブに活かす生き方)を作り出せる社会、文化があって初めてそうした暴力は減らすことが出来るのだと思う。

同様に、何かに挫折し、競争から落ちこぼれてやる気のなくなった人も、その努力することによって身に付けたものをうまく置き換えられる社会や文化を持つことによって、初めて、うまくいく事が出来る。
とは言え、あまりにも専門化が進んでしまうと、この置き換えが非常に難しくなってくる。
だから、総合的なスキルを身に付ける、イコールどんな状況でも対応できるタイプをより多くつくらないと、社会はかなり難しい状況になってしまうのではないかと思う。

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